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「お願いしま〜す!」
今か今かと足踏みをする水牛に向かい声高く発すると、牛車はゆっくりと動き出す。
熱い陽射しに焼かれた白い砂の細い道を一歩一歩ザクッザクッと進み、島の謡を唄いながら珊瑚の石垣と赤瓦の町並みをゆく。
僕は八重山の竹富島在住6年間のほとんどをこの水牛車観光の仕事に打ち込んだ。
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竹富島と言えばその歴史的景観と古典芸能の島である。
そしてとにかく小さい。
「社会が狭過ぎて住みにくいだろう?」とよく言われるがそこは違った。
毎日が世界中からの観光客達で溢れかえっている上に、島外への情報発信と沢山の交流会なども行われ、島は小さいけれどその世界は海の様に広大かつ深いものであった。
莫大な人口を抱える大都市の核家族に比べたら島民は皆家族であり、子供達はなんとも快活に育ち、困った事なら助け合い、嬉しい事は分け合い、歌い、踊りながら生きている。
東京に生まれ、埼玉の住宅街に育った僕には全てが驚きの毎日であり、通りすがりの旅人であった筈が瞬く間に魅了され、竹富島の生活に浸かっていった。
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必要な物は森や海からも調達し、それが道具や食料などになる。
見たことも無い色彩の大きな魚や鶏や山羊を自分の手でさばき食すると命の大切さを痛い程に感じた。
今まで欲していた物は不要になり、代わりに旧暦や月齢や潮汐、風向きなどが重要になった。


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自分自身も次第に変化し“他人”という言葉は無くなり、誰にでも友の様に接する人間へと変わっていった。
そして自然環境や三度の食事も大事にする様になった。
弾む様に楽しい毎日であったが、長寿大国と言うからには別れも多く深い悲しみを幾度も経験した。
どのオジィもオバァもこの馬の骨を随分と可愛がってくれたものである。
何か間違いを起こした時などはひどく叱られもしたが常に愛情も感じていた。
別れには水牛とのそれもあった。
どんな暑い日にもどんな嵐の日にも共に沢山の観光客達を楽しませていった水牛達は家族の様であり、その死別には涙を枯らした。
しかし職務中には“動物虐待”と罵倒された事もありその時は心底残念でたまらない想いであった。
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僕は実家の長男という事などから、いずれは島を発たなければならない。
そう思うと時日の経つのは恐ろしく早く、日々をより一層大切に刻んでいった。
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熱気の漂うある暑い日、久葉笠を深くかぶった普段物言わぬオジィが「行かなくていいさ、ここにずっとおれ!」と言ってくれた時、僕は決断と後悔の交錯する痛切の想いだった。
そして残る日々を、牛車に揺られながらゆっくりと数えていった。
この小さな小さな島でのそよ風の様な生活は自然の偉大さ、命の尊さ、人への優しさを静かに教えてくれたのだと思う。
今でもあの島を度々想い出しているが、目線はいつも牛車の上から竹富島を見つめている。
今、この時間にも島の人々や水牛達が生活をしている。
それはまるで、想い出が生きている様に感じてならない。
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