2006年11月――。
ファインダーの向こうに笑顔がある。
柔らかくて丸みのある、皺に優しさがにじんだ笑顔だ。
「じゃぁ撮るねぇー」
レリーズボタンを押し込むとファインダー象が一瞬消失し、カメラを握った手に微かな
ミラーショックが伝わる。跳ね上がったミラーは小気味よく鳴り、シャッターも静かに
音を発した。
カメラを構えた腕を降ろすと、おばぁはファインダーの向こうで写っていた笑顔のまま
島訛りで言った。
「できたらおばぁにも写真ちょうだいねぇ」
うん、と笑顔でこたえると、ほらお菓子も食べて、と促されて、湯気を揺らしていたさん
ぴん茶を一口啜り、黒砂糖をひとつつまんだ。
僕が初めて西表島を訪れたのは2002年9月、15歳の時のことだ。祖父と祖父の友人、そして僕の三名での訪問だった。この時、初めておばぁと会った。祖父の亡くなったお兄さんの奥さんだという。
寝泊まりは祖父の本家を利用し、炊事も三人でしてはいたが、おばぁが朝食と夕食をごちそうしてくれたり、食べ物も差し入れてくれたりした。
それから毎年西表を訪れる度におばぁは本家にやってきて、必ず食べ物を差し入れにきてくれた。
家を訪ねるとお茶やジュース、果物やお菓子を出してもてなしてくれる。毎年当たり前のことのように面倒を見てくれるおばぁ。本当に感謝の思いでいっぱいだ。
前回の島訪問から半年後の2006年11月、気が付けば一人で西表を訪れるようになっていた。
「昨日から本家に泊まってるの」
口の中で小さくなった黒砂糖を舌でもてあそびながらそう言うと、おばぁは「まったく知らんかったさぁ」と驚いた表情をつくった。おばぁは本家の庭の掃除をしてくれている。
「ひとり? ひとり?」と訊いてきたおばぁに、そうだよと返す。
「一人で寂しくない?」
「うん、大丈夫」と笑って答える。うふふ、もう19歳になったんだよ。
「ここに泊まったらいいさぁ。おばぁ一人だからよぉ」とおばぁは声を出して笑うと、ほら食べて食べて、と黒砂糖をすすめた。またひとつ口にする。うーん甘い、西表黒糖の味。
さんぴん茶を飲んで黒砂糖を舐めて、ゆったりのんびり、ふたりゆんたく。子供戻ってこないさぁ、としんみりした話し方をしていたおばぁは、ちょっと寂しいのかななんて感じさせた。
たわいもない会話をしばらくして、お昼を知らせる音楽が集落に流れた。正確に合わせてあった腕時計は、短針が12を指し、長針は一分だけ過ぎている。時報はほんのちょっぴり遅れているらしい。
何個目かの黒砂糖が口の中で溶けた頃、湯飲みに残ったさんぴんちゃを飲み干し腰を上げる。写真送るね、そう言っておばぁの家を後にした。
島のあちこちで写真撮影をして帰ってきた翌日の夕方、おばぁが本家にやってきた。
「これ食べてぇ」ねっ、とにっこり笑顔も付け加えておばぁは
ソーメンチャンプルーを差し入れてくれた。
ありがとう、というとおばぁは笑顔でうなづいて、サンダルを
鳴らしながら家へと戻っていく。今年もやっぱりお世話になっ
ちゃってるなぁ。
それにしてもどっさりだ。3人前はありそうなくらい盛られ、
さんまのかば焼きまで乗っかっているスペシャルなソーメン
チャンプルー。
今日の夜ごはんはスペシャルだ。それからすぐに「えんどうの花」が集落に流れた。
17時を知らせる曲だ。やっぱり一分遅れている。
2007年10月、一枚の写真を手にして一人、西表にやってきた。
直接手渡せたらな、せめておばぁに近い身内の方に……。
西表に来る数か月前のことだ。
たまたま西表を特集したテレビ番組で、やまねこマラソンの参加者に手を振って応援している
笑顔のおばぁの姿があった。わぁ元気してる、とうれしくなった。
だがそれから少しして、祖父からおばぁの訃報が入った。92歳だった。
すぐに写真を送っておけばよかったと、とても後悔している。
遅くなったけど写真は村の誰かに託そうか、やっぱりおばぁの家にそっと置いておこう、そんな
ふうに考えながら散策のため本家を出ようと思った時、網戸越しに誰かが声をかけてきた。
「えーと、あんた誰ね?」網戸の向こうの男性がいう。60歳くらいだろうか?
えっ、あっ、ここの家の親戚で者です、と言うと、
「あぁそうなの。僕もここの親戚さ。いまここの庭から借りてたさとうきび、返しにきたからよ、
終わったらお昼ご飯食べに行こう」と言って男性はさとうきびを持って庭の奥へと歩いていった。
親戚? さとうきび? さらにお昼ご飯? 突然の訪問に突然の展開に少し焦った。
――もうすぐ17時になる。
散策に出るのが一分早かったら会えなかったかもしれない、渡せなかったかもしれない、
居間で寝転がりながらそう思っていた。
「あそこのおばぁは僕の母さんさぁ。で、僕は長男さぁ」
そんな予想外な展開から、気が付くと隣村の食事処で石垣牛カレーをごちそうになっていた。
長男さんは自分のお母さんの家の片づけのため、少し前に沖縄本島からやってきたのだという。そして翌日には朝一番で西表を離れると言っていた。
食後、村に戻っておばぁの家でお線香をあげてから、僕は本家に戻った。そこで一番重要なことを思い出す。長男さんまた後で本家に来ると行っていた。こんな機会きっともう二度とない。
写真、渡さなくっちゃ。
しばらくして、長男さんはやってきた。
そっと置いておこうと思っていた写真を、おばぁに代わって長男さんに手渡す。
しっかり受け取ってくれた。きっと長男さんならおばぁにも繋がっている。
「あぁ、いい笑顔だぁ」
写真をじっと見つめながら長男さんは笑みを浮かべながらそう漏らした。一言、ありがとう、と言って生まれた家に戻っていく。おばぁみたいにサンダルが鳴っていた。
穏やかな夕方の空気の中、「えんどうの花」が耳に流れ込んできた。楽器だけのゆったりとしたリズムのその曲は、妙に懐かしく聞こえる。
おばぁよくこの時間帯に差し入れくれたなぁと思い出す。
追憶の糸はファインダーの向こうの光景にも繋がっていた。笑顔がある。柔らかくて丸みのある、皺に優しさがにじんだ笑顔だ。
ふとソーメンチャンプルーが食べたくなった。スペシャルなソーメンチャンプルーが。 |