美ら島物語
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とにかく苦しかったんですよ、昔は。
静かに山川酒造会長婦人、敏子さんは語りました。
私の実家にもよく借金しに行きましたね。何でもやりました。
泡盛では食べていけないし子供たちも養っていけない。だから、養豚、キビ、稲作など、朝早くから夜遅くまで、必死に働きっぱなしでしたね。創業者がね、古酒の時代が必ず来るから寝かせ続けなさいっていつも言っていたんですよ。だから、余計大変でした。造ったものを売らずに寝かす。一円のお金にもならないことをずーっとやってきましたからね。「古酒の時代が必ずくるから」、と信じていた創業者の言葉が支えだったんですよ。だから、続けてこれたのだと思いますよ。今でもね、山川は造った泡盛の8割を寝かせ続けているのですよ。
私、本土の大学へ通っていました。その間毎年私の夏休みの帰省に合わせて子豚を買ってきていたんですよね。で、帰ったらその世話係が私の役目。人様からは蔵元のお嬢様で、優雅な生活をしているように思われていたかもしれませんけどね。休みの間中、ずっと子豚の世話ばかり。私が本土へ戻るころにはちゃんと育ってくれて、それが私の喜びでもありました。山川の豚はモロミを食べているから身が引き締まり、赤肉が多くて人気がありましたよ。
なぜそれをやってこれたのか。そう聞かれたら困りますけどね、当時はみんな必死でがんばっていましたからね。ただ、家族全員古酒へのロマンがあったからだと思いますよ。(長女晶子さん)
操業当初はね、山川の杜氏は首里から来た当間さんという女性だったんですよ。その方から泡盛作りを徹底的に学びました。
蒸し終わった米に手を突っ込んで、その手が感じる温度で適温を覚えなさいってね。季節によって温度管理も大変な作業。冬場は温度が下がるので、工場内で焚き火をしたり、夏場は暑いから風を送ったり。
赤子のように思いをかけて守り育てなさいってね。創業者と杜氏の泡盛にかけた熱い思いをいつも強く感じていましたね。(工場長)
昔、首里の古酒は200年ものもあったわけですよ。それが戦争ですべて失われてしまいました。戦後、再び酒造りが始まる中、これからすべてが再スタートっていうのは何処も同じ。
その中でも、琉球王朝時代のような泡盛・古酒を世に送る仕事をしたい。創業者はそう願っていました。それは、自分の代ではできることでないけれど、子や孫がその意思を受け継いでいって、豊かな泡盛を、古酒をやんばるから世に送り出してほしい。自然の中で育まれた首里の酒にも負けないものを。と、創業者は熱く語っていましたよ。当時、それがどんな意味なのか、はっきりとした答えはありませんでしたが、私たちもその思いを受け取り、ひたすら寝かし続けながら時を待ち続けました。それでやっと今、30年古酒(実質的には35年古酒)を送り出すことができるようになりました。
振り返ってみると、この古酒のために歩んできたのだなと感じます。
とても大きな喜びでもありますが、それとともに次の世代で実現するであろう100年古酒を送り出すという使命感が強くなっています。それが、わたしたちが沖縄に生まれた意味であり、使命でもある、そんな気がしています。苦しい時代を超えられたのは創業者が描いたロマンと夢を受け取ることができたからでしょう。山川は古酒一筋、製造量の8割を貯蔵熟成させています。また、商品に対してもこだわりがあります。たとえば5年物の古酒に3年物の古酒を仕次ぎした際には、5年物の比率がどれだけ高くても、商品での表示は3年古酒とうたいつづけています。(山川酒造、山川会長)
百年の夢とロマン、創業者の思いとこだわりをかたくなに受け継ぎ守って、今やっと35年。さらに65年の年月をかけて、100年古酒が再び、沖縄から誕生するのです。(2002.11.21掲載)
 
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