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うはは。ちょっとNHK「プロジェクトX」風にしすぎたか。
でもえらいよねぇ。
ただでさえ低い自分のところの米自給率(3.6%)を顧みず、岩手のために全水田の1/5を貸すと言うのだ。しかも即決。ちょっとおおらかすぎない?と思わないこともないが、沖縄らしくてとてもいいなぁ。
そして、その後もNHKの番組ディレクターはなぜこのネタを取り上げないのだと不思議に思うくらい「プロジェクトX」的な出来事が続くのである。それをここでくわしく書いていくとそれだけで一冊の本ができるような長い物語ゆえかなり端折るが、ざっと追っていこう。
石垣島に入った菅原氏の使命は「石垣の農家の方々に岩手34号を大量に作ってもらい、種籾として6月の田植えに間に合うように持ち帰る」ということであった。
が、彼はまずカルチャーギャップに苦労する。岩手と沖縄では米に対する姿勢がまるで違うのだ。寒い国と暑い国の気質の違いもあったろう。沖縄側は「まぁまかせとけって。わしらがちゃんと作ってやるさー」と明るく笑うが、岩手側は失敗が許されないだけに悲壮感漂う。真剣味が違うのだ。そして肥料や農薬の使い方などの作法もずいぶん違ったようである。細かくきっちりの岩手と、超アバウトな沖縄とのすれ違いは長く続いた。
菅原氏は根気強く彼らを指導し、協力体制を築き上げた。作り方の違いに最初は反発していた石垣農家もだんだん彼の熱意にほだされていく。
田植えをしたのが1月7日。大風や不稔などの幾多のトラブルを乗り越えて、待望の出穂(しゅっすい:穂が出ること)を迎えたのが4月1日。
そして、4月末、岩手34号はついに刈り取りの時を迎えたのである。
4月28日。
刈り取った種籾とともに石垣の人々が岩手入りした。
飛行機のゴーーというエンジン音が止まると、聞き慣れない音が彼らを出迎えた。
サラサラ、サラサラ、サラサラ。
岩手の人々が振る日の丸の小旗の音であった。小旗の擦れ合う音に、石垣の農家の人々は鳥肌し、足を止めたという。
「ありがとう」「助かりました」「これでまた米が作れます」
岩手の人々の心からの言葉が染みた。
石垣から持ち帰った種籾は、岩手ですくすくと育ち、その年は大豊作となった。
その米「岩手34号」は石垣島との交流を記念して「かけはし」と名付けられ、「ひとめぼれ」と並ぶ岩手の代表的な米となった。
石垣の米づくりもまた、岩手の技術を得て格段の進化を遂げた。苗の病気も岩手の指導で根絶できた。
米をかけはしに、北と南がつながったのである。
2002年冬。ボクは岩手県に行っていろんなヒトの話を聞いた。
石垣島の取材だとわかると、みんながみんな「さぁどうぞどうぞ! 石垣には本当にお世話になった。今日岩手があるのは石垣のおかげだ」と心から歓待してくれた。まさに「心から」であった。顔を見ればわかる。
びっくりしたのは、岩手の小さな町の小さな店とかに「石垣島特産品コーナー」があったりすること。他のどの県のものでも、沖縄県のものでもなく、石垣島のものだけ唐突に置いてある。それも一店だけではない。いくつも見た。それほど岩手の人々の石垣島への感謝が深かったということだ。石垣島は遠き北国岩手県で実に愛されている。
その深い感謝と愛に応えようとした人が、石垣島にいる。
泡盛「南雪」を企画した請福酒造(石垣島)専務の漢那(かんな)惠子さんである。
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