沖縄の日本復帰という思いがけないきっかけで導入されたツインオッターは、1973年12月28日に与那国線に就航。1974年には新路線となる多良間線を開設。同年・南大東線に就航。1976年・波照間線、1978年・北大東線、同年・粟国線と次々に新路線を開設。それまで船でしか渡れなかった島々を「空のかけ橋」として結び、離島には欠けがえの無い存在となった。

ツインオッターの思い出 30代男性

私たち夫婦は与那国島出身です。初めて乗った飛行機はDHC-6でした。 夫婦とも島で育ち、島から出るときは何時もDHC-6でした。石垣や那覇の親戚の家へ行くとき。小学校、中学校の修学旅行のとき。中体連での島外遠征試合のとき。いつも私たちはDHC-6で島を出て、また島に戻りました。
高校の無い離島での宿命で、中学を卒業すると進学のため親元を離れDHC-6で島を出ました。私たちが高校生の時、与那国へのDHC-6の就航が無くなりYS-11へと移行しました。
私たち夫婦は大学卒業間近に恋愛が始まり、私は就職直後に南大東島に転勤。妻は、仕事で久米島にいました。その頃が恋愛真っ盛りで、月に約一度はお互いが南大東と久米島の間を行き来し、私たちはまさにDHC-6で結ばれていました。その甲斐あって、南大東離任後に結婚しました。転勤族の私はその後、那覇、東京と赴任し、平成10年に現在の宮古島に転勤し懐かしいDHC-6に再会。DHC-6は宮古−多良間路線で頑張る姿を見せていました。

ツインオッターの思い出 30代男性

DHC-6と言えばなぜか「オバー」が乗っているイメージがあります。これは、初めて乗った粟国便で「カンプー」の方がいらしたからかもしれません。与那国へ行く途中の石垣でも、波照間でもDHC-6の後ろのタラップから降りてきたのは 「オバー」でした。それも一人でとことこ降りてきて慣れた風に到着口へ向かったのを不思議な感覚で見ていました。普通、他の国内線では、その年齢の方の場合は、誰かが付き添っているのが普通なのですが。それだけ、地域に根付いた路線を受け持っていたのでしょう。
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