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琉球に統一王国が成立する前には、北山(ほくざん)、中山(ちゅうざん)、南山(なんざん)と呼ぶ三つの小国家が並立し、それぞれが北山・中山・南山王を名乗り対抗した。中国はこれを指して「三山」と呼び、歴史上この時代を三山時代という。
今帰仁(なきじん)グスクを拠点に沖縄本島北部地域を支配したのが「北山(山北ともいう)」であり、最後の城主・攀安知(はんあんち)は腹心の大将・本部平原(もとぶてーはら)とともに、武力の強化・拡充に努め、周辺の按司達から大変恐れられた存在であった。
攀安知は最大のライバルの沖縄本島中部を拠点とする中山(ちゅうざん)侵攻を計画していたが、攀安知を恐れる按司たちが、先んじて北山攻略を行うことを中山王に進言。
中山王は息子・尚巴志(しょうはし)に北山攻略を命じた。尚巴志は、1416年に約3千人からなる連合軍を結集し今帰仁グスクを攻めた。当時の沖縄の人口は約8万人程度だったことから、連合軍の規模がいかに大きなものだったか想像できよう。
しかし、天然の要塞である今帰仁グスクは難攻不落、連合軍の昼夜・三日間に渡る攻撃を撃退した。正攻法では攻略が難しいとみた尚巴志は、密使を送り攀安知の腹心・本部平原を説得。北山軍を城外の攻防におびき出すことに成功、北山全軍が城外で戦っている間に城内に侵入した。今帰仁グスクを攻落された北山軍は防御の全てを失い敗北したという。
北山王・攀安知は、守護神としていた霊石を斬りつけ、かえす刀で自害したという。
その後今帰仁グスクには、中山王の親族から北山監守が派遣され、17世紀初め頃まで北山監守の居城として使用された。 |
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