組踊 年表
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1404年
中国より琉球最初の冊封が行われる
1429年
尚巴志、南山を滅ぼし、三山統一。ここに琉球統一が成る。
1458年
護佐丸・阿麻和利の乱
万国津梁の鐘を首里城正殿にかける
1470年
尚円王即位(第二尚氏王統始まる)
1500年
八重山でオヤケ・アカハチの乱が起き、中山軍に平定される
1609年
島津氏の琉球侵入。尚寧王捕虜となる
1684年
組踊の始祖、玉城朝薫生まれる
1718年
玉城朝薫、尚敬王冊封のため踊奉行に任ぜられる
1719年
尚敬王の冊封
玉城朝薫、冠船の踊奉行。「重陽の宴」に初めて組踊「護佐丸敵討」「執心鐘入」上演。「銘苅子」成立
1734年
玉城朝薫没
1853年
4月
ペリー、那覇に来航。首里城を訪れる。
6月
ペリー、浦賀に来航、国書提出。
1868年
明治維新
1879年
琉球処分断行。琉球藩を廃して沖縄県を置く
1972年
沖縄県本土復帰
組踊が国の重要無形文化財に指定される |
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組踊は、歌三線(音楽)、唱え(せりふ)、踊り(舞踊)で構成される沖縄独特の古典劇です。1719年に踊奉行・玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)によって創作され、以来、300年間演じられ続け、1972年、沖縄復帰の年に国の重要無形文化財に指定されました。組踊には、音楽、舞踊はもちろんの事、琉歌や故事などの文学や歴史的要素も多分に盛り込まれており、沖縄の伝統芸能の精髄とも言われています。ここでは組踊研究の第一人者、「国立劇場おきなわ」の大城学企画制作課長に、組踊が生まれた歴史的背景と組踊の独自性についてお話をうかがいました。
第一回「組踊の誕生」
組踊が創作された経緯を教えて下さい。
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「組踊が生まれた背景には、冊封使(さっぽうし)渡来があります。1429年に琉球王国が出来て以来、中国との関わりが深く、琉球の国王の代替わりごとに、中国の皇帝が琉球の国王を任命するという制度がありました。
とはいえ、中国の皇帝が琉球に来るという事はなく、皇帝の使いがやってくる。この使者を「冊封使」と言いました。当時、彼らは風の力を利用して、帆船で福建省の福州からやってきました。福州は、琉球より南にありますから、冊封使は南風が吹く頃(4月又は5月)に琉球にやってくるんですね。 |
そして、北風、沖縄の言葉で言う「新北風(ミーニシ)」が吹き始める10月から11月頃に帰る。
この半年間の滞在期間中に、冊封使は二つの大きな仕事をします。前の国王の弔いの儀式と新しい国王を認証する儀礼です。仕事が終わっても、北風が吹くまでは中国に帰る事ができませんから、琉球国では冊封使をおもてなしするために、王府主催の宴を七回催しました。
最初の宴は、弔いの後に行い、歌や踊りはやりません。二回目から歌や踊りが加わります。これはもうかなり大掛かりなもので、琉球王国の威信をかけた催し物でした。首里城の正殿の前の庭、「御庭(うなー)」と言いますが、そこに特設舞台を作って芸能を披露していていました。
そして七回目の宴の時は、冊封使が宿泊している天子館という施設に舞台をつくり、そこで芸能を披露しました。「芸能でおもてなし」という、琉球王府の大きな事業が展開されていたわけです。
その際に、プログラムを作る人たちがいるんですね。どういう曲でどういう方々に何を歌わせようか、踊っていただこうか、決定するところがございまして、そういう人達が勤める所を「踊奉行」と言ったんです。
「踊奉行」には通常、5名の役人がいまして、いずれも芸能通です。
1718年に玉城朝薫が踊奉行に任命されます。彼は、琉球芸能はもちろんのこと、日本舞踊を習い覚えていたぐらい大変な芸能通でした。また、役人として踊奉行になる前に、江戸や薩摩に上り、本土の芸能も沢山鑑賞していたようです。その玉城朝薫が、1719年の宴のために創作した芸能が組踊でした」 |
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これまでの芸能と組踊の違いを教えてください。
「それまでは音楽があって、踊りがあるというスタイルだったのですが、踊り手がセリフを唱えるという琉球では新しい芸能が誕生したんですね。
組踊は基本的には、琉球の方言でセリフを唱えます。でも、これは中国の冊封使をおもてなしするための芸能ですから、彼らに劇のストーリーがわかならくてはいけない。そこで琉球王府はだいぶ工夫を施したようです。その工夫が何かというと、中国というのは儒教の国ですから、儒教道徳に貫かれたストーリーにしようという方針がありました。
それゆえ組踊というのは、一貫して、親に考するの「考」、主人に忠するの「忠」、「忠孝」がテーマになっています。例えば、仇討ちものは、親が討たれると子供が成長して親の仇討ちをする、あるいは、主人が命を奪われると臣下が仇を討つという非常にわかりやすいストーリーです。そしてそのわかりやすいストーリーの中でどう人間性を描き出すか、という事に組踊の面白みがあります。
そして、1719年に玉城朝薫が創った5つの組踊(「執心鐘入」「ニ童敵討」「銘苅使」「女物狂」「孝行の巻」)、これが冊封使に大変評判だったんですね。以後、王府は踊奉行に組踊を作ることを命じるようになりました。
とはいえ、玉城朝薫以後、毎回新しいものをやるのではなくて、前回はどの組踊が評判良かったかというのを調べて、好評だったものをまた次の冊封使が来た時に上演する、という事をやっているんですね。
琉球王府が踊奉行に作らせた組踊で、現在確認できるものは、およそ70あります。また、1719年以後というのは、冊封使をおもてなしする番組(プログラム)というのは、組踊を中心に考えるんですね。まず、組踊、それから舞踊や、獅子舞、棒踊りを決めていきました」
芸能で外国から来る人をおもてなしする、というのは沖縄独特の考え方なのでしょうか?
「うーん、沖縄独特というか、沖縄の人はそれしか持ち得なかったという事だったと思うんですね。
例えば、お料理でおもてなしする、というのもありましょうが、もう一つ「楽しめるものを」と琉球王国は芸能を選んだわけですよね。
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実はこの芸能というのは、先ほどの踊奉行もそうですが、中国からやってくる冊封使をおもてなしするために任命されただけでなくて、国王の年忌というものがございますよね? お亡くなりになって三年忌とか七年忌という時に芸能を披露しているんですね。その命日の日にですね。そういう事で琉球王府としては、芸能でおもてなしする、あるいは芸能で慰める、癒すという事をやっていたんじゃないかと思うんですね」 |
日本の王朝、たとえば平安時代には和歌や踊りなどが盛んに行われてきましたが、踊奉行という役職を作ったのは琉球王国ならではの事なのでしょうか?
「そうですね。琉球王府において踊奉行というのは、かなり力を入れた部署なんですね。琉球の役人というのは、歌や踊りを自らたしなむ。それから芸能や日本の古典文学を一通り学ぶというのも彼らの教養の中でやっているのですが、なお、その中でも踊りが出来るとか歌えるという人が踊奉行になっていったと思うんですね。
玉城朝薫自身、日本舞踊をも踊るし、和歌も作る。だから舞台や芸能にはかなり精通していたと思いますしね、そういうもろもろの状況を見て、芸能通であったり文化通であったりする人が踊奉行になったんだと思います」
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