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第二回「島々に伝わった組踊」
もともとは冊封使を歓待するために、琉球王府で作られた組踊ですが、時とともに地方や離島などにも伝わっていったと聞きます。そのいきさつについて教えてください。
| 「琉球王府で行われていた舞踊というのは、各地にある民俗芸能をヒントに、王府の芸能としてより昇華された形に作られたであろうと予想されます。王府の役人は三線や踊り、あるいは組踊といった芸能を教養として身につけているので、その行く先々で組踊や他の芸能を教えたり披露したりという事をやっているんですね。それが各地で非常に受け入れられたんです。 |
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ですから、地方に行った役人がそこに住む人々に組踊を教えたというのが一つ。
もう一つは、組踊は琉球王朝時代に県内全てに普及したわけではなく、廃藩置県以後、明治になって伝わった村落もありました。明治中期以降になりますと、芝居役者が登場します。彼らが離島で興行をうつ。島では役者に宿を提供することと引きかえに、役者から組踊や舞踊を教わる、という話になるわけです。
組踊というのは大分早い時期に地方に行くんですよ。今、沖縄に現存する古い台本は1818年のものなんですね。これは玉城朝薫の初演以来、99年後のものなんですが、宜野座村にあります。だからといって、当時、宜野座村だけで組踊を上演していたとは考えにくいわけで、もっと広い地域で上演されていたと思います。
もう一つ、これはまた違った角度からの見方なんですけれど、琉球全体に儒教道徳を普及させようという王府の方針があったのではないかと思われるんです。組踊というのは、北は国頭村から南は八重山まで現存しているんですね。しかし、ただ教育的に教えるのではなくて、芸能で教えようという王府の方針があったんじゃないかという見方もあります」
沖縄各地で見られる組踊は全て首里言葉で演じられるそうですが、それは組踊が台本と共に広まったからだと聞きましたが?
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「そうです。組踊の特徴の一つに、台本が必ずあるということがあります。役人は台本を携えて地方へ行く。役人は文字が読めますから、台本を読んで意味解きをして演技指導までする。組踊というのは、約70の古典の作品があり、台本が残っていますし、今後調査していけばもっと増える可能性があります。このように、組踊というのは台本とともに、島々、村々に伝播していったといえます」 |
その台本を元に、島人達がオリジナルの組踊をつくったという事はないのでしょうか?
「これが実はあるんですよ。この島にしかない、という組踊があるんです」
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