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沖縄県からの承諾も得た。さて、次は誰に現地に行ってもらうかを決める段である。菅原さんに白羽の矢が立った。この時のいきさつについて前述の澤田行一氏はこのように述べた。
「あれほど真面目で一本筋の通った男はいないから、私はなんとしてでも邦典さんに行って欲しかった。邦典さんは過去に、水沢市と北上市で種子生産の担当をしていたし、当時は『かけはし(岩手34号)』の担当をしていて、『かけはし』の事を知り抜いているのは、邦典さんをおいて他にいなかった」
笑い話をするように、少し照れながら菅原さんは言う。
「11月に入る前でしたかね、私は上司に呼ばれて、“こういうことで、あんた、石垣に行ってくれ”と。当初は半年〜1年というスパンの計画だと思っていたから、仲間うちでは、“俺が1週間か半月行ったら、あんた次行ってくれよ」というふうに1ヶ月交代くらいでやろうというような話を内部ではしていたんですよ。“じゃ、俺、最初に行くからよ”とかね。しかし、結果的には、沖縄から“いや、そんな中途半端じゃできません。できれば、スタートから最後まで誰か一人担当を決めてきちっと見てもらいたい。初めての品種なので、指導、支援してくれる方を置いてくれないと困る”と言われたので、たまたま一番暇な私が行くことになりました(笑)。ぼおっとして毎日遊んでいましたので、“お前、行って来いや”という話をされたわけですね」
辞令を受けた時、菅原さんは何しろびっくりしたという。大変な役を受けてしまったものだ、そう思ったという。
失敗したらどうしよう、とは思いませんでしたか? と私は聞いた。失敗ということよりも、この仕事を受けると最終的に決めるまでの葛藤の方が大きかった、と菅原さんは言った。
「当時、家では90歳の祖母が寝たきりでいましたし、私のお袋は80歳ちょっと前くらいでしたから、家内を石垣に連れていくわけにはいかない。家内には申し訳ないけれど、うちにいて二人を見てくれないか、という話をしたんです。しかし、家族会議の時に、私の父親が、“俺達の事は心配するな、大変な事とは思うが二人で行って目的を立派に果たして来い”、と言ってくれたので家内と二人で行くことになったのです」
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