1999年3月、小浜島を出て沖縄本島に越してきた僕は「琉球古典音楽」や「琉球舞踊」を題材にした舞台演出のシゴトに就いた。確か、僕が30歳の時のことだ。初めての商業的な、プロとしての舞台のシゴト、それも「総合演出」という重責、更に「古典」というジャンル。全てがプレッシャーとセットのシゴトだった。
「大琉球浪漫王朝の歌と舞〜沖縄新歌舞団『大太陽(うふてぃーだ)』」。
県内何千とある琉舞練場から、オーディションで集められた若手舞踊家 約40人との稽古の日々は、実に楽しくもありまた刺激的でもあった。
正直いって、八重山出身の僕にとっての「琉球舞踊」というモノは、「宮廷舞踊」であり首里城の王様の為の踊りという認識であった。そのため、庶民の踊りとしての民俗舞踊や、農耕儀礼の舞が主の八重山芸能とは相容れないものとして嫌っていた部分があった。
ところが、調べてみて驚いた。小さいながらも「琉球王国」を名乗っていた当時の沖縄では、中国や隣国と交易の交渉事を進める際、文化(芸能)が大きな役割を果たしていたのである。舞や音楽は、外交戦略をする上での重要な手段であり、異国の民と対等に渡り合うためのコミュニケーションツールでもあったのだ。
僕は、琉球文化、沖縄芸能の成り立ちを再考し、自分のこれまでの考え方をあらためることにした。全く新しい気持ちで一から勉強する必要性を感じたのである。
そして僕が、国の重要無形文化財の「組踊」を作った「玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)」のことを知ったのは、まさにその時だったのである。
1714年、30歳の朝薫は「座楽主取(ざがくぬしどり)」という役職で江戸上りを果たす。「座楽主取」とは今で言うところの「総合演出家」みたいなことで、彼の作品を演じた若者達も皆15歳から17歳までの「元服前」の青少年であったとか・・・。子ども達の舞台づくりに携わる僕は、朝薫という人物に何だか不思議な縁を感じ、彼のことをもっと調べてみたくなった。