モノの本によれば、朝薫はその江戸上りの際に大和の芸能である「能」や「狂言」、「歌舞伎」などを観て電気が走るような衝撃を受けたと言う。当時の琉球にはない、生き生きした演目の数々を目の当たりにするにつけ、我が琉球王国の文化の幅の薄さに少なからずともショックを受けたようで、彼の想いの中に「新しい琉球芸能創出の種火」は、確実にあったようだ。
折りしも、今で言うところの文化振興課にあたる「踊り奉行(おどりぶぎょう)」に任命、時の琉球国王「尚敬王」に呼ばれた彼は国家の一大事業である「中国・冊封使」を迎え入れる招宴企画担当という重職を任される。
失敗すれば「命はない!」。
琉球国の威信をかけた新たな芸術作品の創作に、彼は文字通り「命懸け」で取り組んだ。
そして1719年、思索に思索を重ねた朝薫は、琉球に古来から伝わる物語に大和で観た舞台の感動をミックスさせ「組踊」という、全く新しいスタイルの琉球芸能を作り上げた。それは、「音楽と舞踊と芝居」を組み合わせた「琉球型の音楽舞踊劇」だった。
観劇した中国の使者たちは皆立ち上がって涙を流し、感動に奮える声で賛辞を叫びながら、惜しみない拍手を送り続けたという。
朝薫35歳のことだ。
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