時は一五〇〇年、第二尚氏王統第二代、尚円金丸の息子「尚真王」の時代。
琉球王国の三山統一を成し遂げ天下泰平を誇っていた若き王は、奄美諸島のみならず、宮古、八重山諸島をも連なる、大琉球王国建設に着手した。
宮古島の仲宗根豊見親(なかそねとぅいみや)は、その大琉球王国連合軍の傘下に入る。しかし、当時の八重山の豪傑「オヤケアカハチ」は、その一方的な首里王府の申し出に激しく抵抗、なんと三年間も王府に年貢を納めなかったという。怒った「尚真王」は、遂に八重山討伐を決定。精兵三千人、軍艦四十六隻を駆り出し、向かえる三百人足らずの兵力の八重山を攻める。
八重山側の王府軍の総大将は「長田大主(なーたふーず)」。アカハチとは、同じ波照間島生まれの幼なじみ。その王府軍の急先鋒として最も活躍した「長田大主」に追い詰められたアカハチは、底原山の大きな榕樹(がじまる)の木の下で、死に物狂いに抵抗するも多勢に無勢、遂に討ち取られてしまう。首を刎ねられた後も、八重山中の空には、アカハチの慟哭がいつまでも響き渡っていたという。
これが世に言う「オヤケアカハチの乱」の史実である。
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