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美ら競馬

1771年には、明和の大津波が八重山とともに宮古を襲う。
「(宮古群島で)波にさらわれた村、12村。人命を失った者2548人、馬は403頭失われたと記録されている。これから推察すると当時の宮古島には2000頭前後の馬が飼われていたと思われる」(宮古研究第4号・宮古の在来馬)
というが、天災を被っても、人頭税や宮古上布、宮古馬の献上を課す琉球王府の手綱は緩むことがなかった。

馬耕の風景
畑の行き帰りは馬車にゆられてのんびりと
宮古畜産史より

ところで、苦難の歴史を宮古人はどう受け止めているのだろう。
「宮古のアララガマ(なにくそ精神)はそういう厳しい時代を経て生まれたんですよ。
宮古人は根性が違いますからね。結束力、団結心も物凄く強い。酒飲みが多くて、何かあるとオトーリ(車座になって口上を述べながら酒を飲み回す)ですけどね。
ところで、オトーリの意味、知ってます?金持ちも貧しい人も車座になって杯を回して公平に酒を飲みましょうって意味なんですよ。不公平では結束力も団結心も生まれないですからね」
と宮古・城辺町出身の島尻照男さんは言う。

司祭が神歌を唄いながら御神酒をつぎ回した豊漁収穫祭の儀式、ウトュー(御通り)が、時を経て、団結心を強めるための飲み会へ。苦難の時代がそうさせたのか。島尻さんは続ける。

「つらい環境に耐えた農家には常に馬がいました。私らが子供の時代、昭和30年代までは馬がいないとサトウキビが生産できない時代でしたからね。馬を使って苗を植える。馬を使って製糖工場へ運ぶ。
だから、馬を大切にしましたよ。芋を食べるのはまず馬、そのあとに人間。
米研ぎ水を飲ませて、湧き水で洗って藁でこすってやる。それから木陰で休ませる。
蹄鉄は借金してでも揃えろっていう格言まであるぐらいでしたから」。

馬とともに生きた宮古人。人頭税撤廃を告げる鏡原の競馬から約半世紀、宮古島に再び朗報がもたらされたのは1935年(昭和10年)のことだった。

宮古馬・珠盛 珠盛(「宮古畜産史」より)

島尻照男さんの出身地、城辺村で飼われていた宮古馬の珠盛(たまもり)、漲水(はりみず)と右流間(うるま)が皇太子殿下の乗用馬に指定、宮内庁から採用通知が届けられた。

珠盛の父は沖縄本島で競馬の頂点に立った「ヨドリ与那嶺小のヒコーキ」とほぼ同世代の宮古競馬の名馬、
「泥酔した主人が起きるのを翌朝までじっと見守っていた」と伝えられる恒雄コーザ(名護編で紹介)である。

3頭が東京へ旅立つ日、漲水港には人頭税廃止の国会請願団を出迎えた時と同じように黒山の人だかりができた。

王朝時代からの馬作りがようやく報われ、港内は歓喜に包まれたという。
だが、この時すでに美ら競馬は終焉を迎えようとしていた。
翌1936年(昭和11年)年、二・二六事件勃発。

人馬と共に涼を取る
「写真集 ぐすくべ」より

鏡原馬場跡を再び歩いてみた。
石垣作りの競馬の審判台を起点に旧城辺街道の北沿いを真一文字に延びる平原。

琉球王府の禁令を破って農民が開いた競馬の審判台から城間正安ら国会請願団が見たものは…。
馬とともに苦難を生きた宮古人のアララガマ(なにくそ精神)と団結心だったのかもしれない。

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(2011.02.16掲載)

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